ドラえもんの全ての始まりはタイムマシンから。
自由に時間を行き来できる、まさに未来の道具です。
のび太の勉強机の最上段がタイムマシンの入り口になっていて、その中に広がる時空間にタイムマシンは浮かんでいます。
ドラえもんはタイムマシンに乗ってのび太の世界にやってきました。
タイムマシン無くしてはドラえもんを語ることはできません。
夢の道具タイムマシン
コミック、大長編など、全てのシリーズに共通して登場するタイムマシンは、ドラえもんのストーリーを構成する上で欠かすことのできない重要なひみつ道具です。
- のび太のパパとママを結びつけるきっかけ作りのため
- 今は亡きおばあちゃんに会うため
- 過去の宝くじを買うため
- 白亜紀の恐竜を送り届けるため
など、タイムマシンは色々な場面で使われています。
タイムマシンはすでに発明されている?
ドラえもんの世界では『タイムマシン』が発明されたのは2008年のことだったと記録されています。
ドラえもん41巻「未来図書券」P36:小学館てんとう虫コミックス藤子F不二雄
進化するタイムマシン
タイムマシンが登場した時は単なる乗り物として描かれていましたが、回を重ねるごとに進化を続けます。
初期設定の搭乗人数は3人までで、上限をオーバーして5人(ドラ、のび、しず、スネ、ジャイ)が乗って黒い男の銃撃を受けた時はタイムマシンが故障したこともありました。
その後はタイムマシンのサイズが大きくなり、大長編『ドラえもん のび太のドラビアンナイト』では6人乗っても安定して動いている様子が描かれています。
大長編ドラえもん11「ドラえもんのび太のドラビアンナイト」P190:小学館てんとう虫コミックス藤子F不二雄著
また、最初は運転席に座ってパネル操作をしていましたが、音声認識機能が搭載され、さらに一定の人物の名前や年代を伝えるだけで、その時代、その時間にたどり着けるようになりました。
タイムパラドックス
未来と過去を行き来するタイムマシンを使う上でタイムパラドックスの問題がつきまといます。
タイムパラドックス:
過去の出来事を改変することでその後の未来に影響をおよぼし、矛盾が生じてしまうこと
ドラえもんの世界では、歴史を大きく変えてしまうような行為は航時法という法律により禁止されています。
タイムパトロールが常に時の流れを監視していて、悪質な違反者は即座に逮捕されてしまいます。
ドラえもんとのび太はタイムマシンを使って過去を何度か変えたことがありますが、それがタイムパトロールによって指導されたことはありません。
「歴史を変える」という事実が、すでに歴史の一部として組み込まれていると考えることができます。
結局うまれてくるセワシ?
セワシはのび太の孫の孫にあたる人物で、ドラえもんを未来の世界から送りこんだのもセワシです。
のび太は将来的にジャイ子(ジャイアンの妹)と結婚する予定でしたが、タイムマシンで過去にやってきたドラえもんとともに未来を変え、作中ではしずかちゃんと結婚することになります。
セワシからすると、のび太の結婚相手が変わることで自分が誕生しなくなるように思えますが、
- 他でつりあいを取り、結局自分は生まれてくる
- 異なる交通機関を使っても同じ目的地にたどり着くように、経過はどうであっても自分は必ずうまれてくる
と説明しています。
「結局自分は生まれてくる」と一言で片付けていますが、これは必ずしも「同じ親から同じ時代の同じ場所で生まれてくる」と解釈するのはちょっと無理があります。
例えば一番近いところでのび太の子どもを例に取って考えてみます。
- A:のび太とジャイ子の子ども
- B:のび太としずかちゃんの子ども
セワシの話を元に考えてみると、のび太とジャイ子の子ども(ケースA)から見た場合、例え両親の結婚相手が変わったとしても、結局自分は生まれてくるということになりますが、それがのび太としずかちゃんの子ども(ケースB)として生まれてくるとは限りません。
同じ時代でも遠く離れた全く別の親から生まれるかもしれないし、何年、何十年先の世代で生まれるかもしれません。
いずれの場合でも、本来ケースAで生まれるはずだった子どもがケースBのように別の場所、別の時代で生まれてしまうと、たとえ姿やかたち、性別や名前が同じだったとしても、果たしてそれは同一人物といえるのでしょうか?
おっと、こういうことを考えすぎるとドラえもんの良さが無くなってしまいますね。
タイムマシンの実現可能性
タイムマシンは昔から研究されていますが、いまだ開発に成功したという声は聞こえてきません。
実は自分たちが知らないだけで、身の回りには未来のタイムトラベラーがたくさん存在している!という話も聞きますが、果たしてそれは本当なのでしょうか。
タイムパラドックスの問題もあり、タイムマシンは理論上実現不可能という話も聞きますが、夢が広がる話題であることにはかわりありません。